岐阜やおつの 藤井製菓

0574-43-1392
OPEN 8:00-17:00 土・日・祝日休み

八百津町についてabout

八百津町は岐阜県の東南部に位置し、北には飛騨川、南には木曽川が流れ、総面積の約8割を山林が占めるという水と緑に包まれた町です。
町の西部は海抜120m前後の河岸段丘に沿って住宅や農地が広がり、東部は海抜500mから600mの高原となっていて集落が点在しています。古くから林業が行われているほか、第二次産業も盛んです。
八百津町の地場産業として代表的なものに八百津せんべいをはじめとし、地元の栗を使用した栗きんとんなど菓子製造業、清らかな水を利用した酒・味噌・醤油・酢などの醸造業、蒟蒻・製麺・漬物・佃煮・精肉加工品などの食品製造業、自然が生み出す旬の素材(マツタケ・猪肉・山菜等)を活かした料理を提供する飲食業などが中心産業となっています。
観光産業では、命のビザ「杉原千畝氏」の出生地として、杉原千畝記念館。宮本武蔵が修行した、五宝の滝、大仙寺。2020年には日本一高い、岐阜バンジー(ブリッジバンジージャンプ)の新旅足橋は、旅足川渓谷で山と山に架かる全長462メートル高さ共に国内最大級の橋。江戸時代より続いているだんじり祭りがあり、小さな町ですが、多くの方に来ていただいています。

八百津せんべいの歴史history

1910年頃 明治時代末頃
纐纈氏(屋号:高登屋本店)が美濃加茂市内菓子屋でせんべいの製造方法を習い、八百津町木野で製造を始めたのが始まりです。
販売先は地元・近隣都市町村・愛知県。
当時は自転車に一斗缶を6缶積んで片道2~3時間かけ名古屋まで運んだそうです。
1914年~1918年 第一次世界大戦
1939年~1945年 第二次世界大戦
戦争中は製造、出荷が思うようになりませんでした。
当時この地域では裏作として、小麦の栽培が盛んで、せんべいの主原料の小麦が他地区と比べ安易に、安価で入手できたのが、存続できた大きな要因であります。
主力販売先である名古屋の菓子問屋が旅問屋と言われる販売形態をとっており、地元だけではなく、全国各地に商品を売って歩いていたおかげで八百津せんべいは全国に名が知れ渡り、全国からも注文が入るようになります。名古屋の問屋を介せず、全国の問屋と直接取引が始まりました。作る人も、八百津を出て、全国各地でせんべいを焼きました。当店初代店主もこの八百津で独立する前は山口県小郡市の工場で働いておりました。
時期を同じくして、仲買人と呼ばれる職種ができ、焼子と問屋との仲介する人も出現しオート三輪(1930~1950年代)自動車の普及により自社トラックにて毎日、大阪・東京方面に配達していました。

1959年 昭和34年9月伊勢湾台風上陸により、大きな被害を受けた東海地区に復興作業の為に集まった人々のおやつとしての需要が高まり、売り上げのピークを迎えます。
町内に100軒を超えるおせんべい屋さんがあり、高度成長、全国展開、特需もあり年商が13億円を超え全国1位のシェアがありました。
現在(令和3年9月末)
近年、八百津せんべいの周知度が低下している中、各メーカーとも新製品の開発や、コラボ商品の企画、従来品の高品質化など、試行錯誤して、八百津せんべいブランドの復活に向け、日々努力しています。

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